-「神話の世界」を小説に② -

2022/11/01

 

前回のアメノマナイは、出雲神話でおなじみ、オオクニヌシ・スサノヲ・スセリヒメのイメージを補完する短編ストーリーを紹介した。

 

コラムでこのシリーズを始めてからアメノマナイのアクセス数・PV数が大きく跳ね上がっているのをリアルに見ると、やはり記紀神話というのはもっとイメージ補完が必要な歴史資料なのだろうと、改めて感じ入る今日この頃である。

 

そもそもGHQにより、WW2の戦後。日本全国ほとんどの学校教育でアンタッチャブルとされてきた分野である以上、21世紀の現代となっては神話のイメージやその考察が風化するのも当然か。

 

やはり現代の日本人には「神心の修道」をもっと知らしめる必要がある。神心書道というのは社会の実態を経験した大人に人気のコンテンツと言えるが、老若男女として総体を見ると、ひとつの方法論として「小説」という方法が有効なのではないか?と、わたしは検討しているわけだ。

 

そんなわけで、今回は連載第3弾である。さっそくいってみよう。

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熊野古道(くまのこどう)

 

 

その魂は今、『月の都』にいる。『月の都』とは、人間が死んだ後に行くところである。

そして再び、地上へ降り立つ時が来たのだ。

 

それは、ただの凡庸な魂ではない。「必ず、もう1度、あなたと出会う… きっと出会うから…」

強い目的、探し求める何かがあった。輝くような全裸に、長い髪をなびかせ、魂は「河」へと入っていく。

 

地上に生まれ変わるために…

 

『月の都』はシュメール語で、「イトゥ・キ(itu ki)」という。日本語に入って「イツキ」となった・・・かもしれない。

 

「斎場」の「斎」と書いて、「イツキ」と読む。

 

 

 

延喜(えんぎ)5年(西暦905年)。

 

現在の和歌山県中辺路町を、ユネスコ世界遺産に指定された「熊野古道」のひとつ、「中辺路(なかへち)ルート」が通っている。

 

うっそうと茂る森の中を、ひとすじの石段の道が、霧の中へと消えていく。旅行会社のポスターの、そんな写真からも、ただならぬ霊気が漂っていた。どう見ても、ハネムーンやフルムーンで行くところではない。この道を歩いていると、死んだ人に会うという。

 

さて、そんな不気味な古道にも、途中ぽつぽつと集落がある。そのひとつ、真砂(まなご)という集落に、庄司(しょうじ=荘園の管理者)を務める、藤原清重(ふじわら の きよしげ)という者がいた。

 

妻に先立たれ、一人息子と暮らしている。その清重が、ある日・・・小さな白い蛇が、大きな蛇にいじめられている場面に出くわした。

 

「これこれ、弱い者いじめはいけないよ」

 

大きいのを追っ払って、小さいのを助ける。

 

すると、その夜・・・1人の女が、訪ねてきた。白い蛇は、その女のペットだという。なるほど、女の着物の袖口から、白い頭がチロチロ、のぞいている。

 

「白音ちゃんを助けていただいて、ありがとうございます・・・」

 

ささやくような声だった。

 

「私は、宇治の橋姫神社の巫女・・・沙織(さおり)と申します」

 

市女笠(いちめがさ)をとって、女は顔をさらした。笑ったような優しい目をした、上品で美しい女。

 

それにしても、怪しい。女が伴も連れず、1人で旅をしている。しかも蛇に「白音(しらね)」なんて名前をつけ、ペットにしているとは・・・

 

家族や夫以外の男に平気で顔をさらすのも、この時代の女性には珍しい。もっとも、それは高貴な女性の話で、農村ではふつうに顔を出して働いているわけだが。

 

しかし清重は「熊野坐神社に詣でる途中の巫女」という説明に、納得した。

白い蛇は、神の使いと言うではないか。巫女さんなら、そういうペットもありか。

 

 

その晩、沙織は清重の屋敷に泊めてもらうことに。

 

「宇治といえば、都も近い。何か目新しい話でも、ご存知ないですか?」

 

清重が自ら、夕餉(ゆうげ)の膳を運んで接待をする。

 

「そういえば… 新しい歌集が編まれたのは、聞いていらっしゃいますか?」

 

ささやくような優しい声が、都の最新ニュースを解説する。

 

「その編者の紀貫之(き の つらゆき)さまが、序文の中で、6人の優れた詠み手を選んでらっしゃるんですけど…」

 

この年は「古今和歌集」が、成立した年でもある。編者のひとり、紀貫之は、女性読者のために「ひらがな」で序文を書くという、画期的な試みをしている。

 

ひらがなが世に広まってから、まだ間もないころであった。この新しい、丸っこい文字をバカにする風潮も強く

 

「男ならば漢字を書け。ひらがなは女の文字だ。」という認識が一般的。

 

そんな風潮の中、あえてひらがなで書いた序文(仮名序)の中で、貫之は9世紀中盤以降の時代から、6人の優れた歌人を選び、論じている。

 

後の世に「六歌仙(ろっかせん)」と呼ばれるメンバーで、現代なら小野小町が1番メジャーだろうか。

 

その「六歌仙」の中に、「喜撰(きせん)法師」という、宇治山に隠棲していた世捨て人の元祖のような人がいて

 

「私の、おじいさまらしいのです… その方」

 

沙織は喜撰法師の孫だ、という。

 

「ほ~」

 

清重は、すっかり感じいってしまった。

 

初めて見たときから、その美しさと、ささやくような声に、すっかり魂を奪われていたが、そのような名高い歌人の血統だったとは。どうりで上品で、田舎臭さがまったくないわけだ。

 

沙織の方も、清重に好意を抱いているように見える。

 

 

その夜、それが運命であるかのように、2人は床をともにした。清重は、沙織にのめりこんでいく。

 

そのささやくような声・・・寝床で愛撫する時も決して大声にならない、遠い嵐のような、切ないあえぎ声・・・

 

 

1週間後。沙織は清重の、正式な妻になっていた。

 

沙織は寝床の中で、清重の執拗な愛撫を受けながら、告白した。白蛇の白音がいじめられていたのは、仕組まれた演出。清重と知りあう、きっかけが欲しかった・・・

 

5年前に1度、熊野に詣でたことがあり、その時に清重を見かけ、恋に落ちたという。当時はまだ、清重に前妻がおり、前妻が死にますようにと、必死に祈願した・・・

 

祈願しながら、懸命に働いて旅の費用を蓄え、5年たった今年、再び熊野を訪れてみたら、祈願したとおり・・・あなたは、男やもめになっていた。

 

異常な告白も、沙織の優しい声でささやかれると、一途な愛ゆえの行動と感じられ・・・

 

清重は感動してしまった。

 

 

 

ある時、清重が仕事に出ると、古道の石段に、1組の男女が立っていた。

 

鳥肌が立つ。

 

一見して、この世の者たちではない、とわかった。

 

女は、白い寝巻きのままで、顔に濡れた髪が垂れている。男は、ドザエモンのようにずぶ濡れで、顔色が紫。

首に濡れた長い髪が、死刑台のロープのようにからみついている。

 

「あの女に、深入りするでない・・・ あれは、魔性の者」

 

「すぐに、離縁なさるがよい」

 

2人は背を向けて、霧の中へと歩き去った。

 

 

「死者に会った」

 

と、清重は悟った。

 

しかし、沙織の肉体にますますはまりこんでいく清重は、その忠告に従うことはできなかった。

 

そのほっそりとした体、その匂い、そしてあの声・・・

 

「沙織・・・ お前を手放すなんて、私には・・・私には、できないよ・・・」

 

「ああ・・・ 旦那さま… 私、幸せ・・・」

 

からみ合う男女の肉体曼荼羅を、白い蛇のルビーのような目が見つめていた。

 

しばらくして、白蛇の白音が、裏庭で死んでいるのが発見された。死因ははっきりしない。それと重なって、沙織の妊娠が発覚。清重と出会って、ひと月が過ぎたころであった。

 

この年、奇怪な彗星が空に出現したと、記録にある。

 

 

 

翌年、延喜6年(西暦906年)。

 

沙織は、女の子を産んだ。夫の名から「清」の字を、死んだ白蛇から「音」の字を取り、「清音(きよね)」と名づける。

 

これが後世の伝説にいう

 

「清姫」

 

である。

 

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「清姫」といえば、紀州・道成寺にまつわる輪廻転生伝説の登場人物だが、神仏習合のお土地柄を思えば当時はなにもおかしくない。現代の「おとぎ話」では住職の読経で清姫は成仏したということになっているのだが、じつは熊野三山に伝わる古代の祝詞だったのではないか、という古文書もあるのがおもしろいところだ。

 

ちなみに。

 

〝おとぎ話″とは漢字だと「御伽噺」と書くのが今では一般的だが、まだ漢字が公用語に採用される大和朝廷成立の以前、縄文のその昔は「王徳話/王説話/王解話」など「王が話すストーリー」の意味があったようで、漢字に置き換えて前述の表現とされているケースが稀にある。

 

では、また次回のアメノマナイをお楽しみに。

 

 

秀麻呂