◆建御名方神(タケミナカタノカミ)
神代文字:天日草文字×出雲文字
【御利益】
風神。盛業繁栄・五穀豊穣・国土安泰・交通安全・開運長寿・武運長久・除災招福・所願成就。
※義勇の神で、タケミカヅチと互角の武神だったとも云われました。出雲から諏訪に移ってからは水神も兼ねるようになりました。
【祝詞】
みなかたの かみのみちから さずかれば
いのらむことの かなわぬはなし
のべにすむ けだものまでも えにしあれば
くらきやみじも まよわざらまし
わがみ まもりたまえ さきわえたまえ
たけみなかたのおおかみ
たけみなかたのおおかみ
たけみなかたのおおかみ
かむながら たまちはえませ いやさかましませ
【解説】
オオクニヌシの子神でコトシロヌシの弟神。長野県・諏訪大社のほか、全国第四位・約5700社もの建立数を誇る諏訪神社の御祭神です。(境内社まで含めた場合の合計は、その数なんと25,000社以上。これは中世の神仏習合で数を増やした稲荷社を抜き日本No,1です。)タケミカヅチが「雷神」の長と考えられていたのに対して、本来のタケミナカタは「風神」の長と考えられていたと推定されます。日本が初めて海外からの侵略戦争を戦った「元寇」の際には、タケミナカタが大風(=台風)を起こして護った、又は鎌倉の号令で集まった武士たちをサポートした(諸説有り)とする伝承もあります。
(別名:武御名方神、南方刀美神、建御名方富命、武南方神、諏訪さま、名方さま、など。)
タケミナカタは諏訪大社のほか、全国の諏訪神社(諏方神社、他・同系含む)でお祀りされています。古史古伝によればタケミナカタは、千人がかりでも動かすのがやっとという大岩でも軽々と持ち上げてしまう剛力の持ち主で、当時地上で最強の神と云われていました。ですが、アマテラスの使者「タケミカヅチ」には敗れ、信濃国(現在の長野県)の諏訪湖に逃げ去ることになります。自らはもうこの地から外に出ないと約束し、それからは諏訪湖のほとりに隠棲したとされています。ただ、これは文献・資料などを総合的に検証した推察ですが、タケミナカタは実は「父神・オオクニヌシ」の思うところに気づいていたのでしょう。(父・オオクニヌシは我らの国をより武力の強いアマテラスに譲ることこそが、近隣諸国との内戦をおさめて民が平和に暮らせる最善であり唯一の方法でもある、そう考えており、それを願っている。)自分自身は納得いかないが、確かにそれこそがこの国にとって一番の選択だ。こう理解したので、臣下の神々が納得するために(自分が負ければ誰も反乱は起こさないだろう、という意図で)形だけの勝負を行い、負けるために勝負をした。このように見受けられます。
いずれにせよ、タケミナカタは正々堂々と、そして双方が命を落とさない程度に平和的な勝負を行った。そして、負けを認めて臣下への見本を示した。このことにより古代日本の統一に向けた国譲りの最終交渉は完結したわけです。雷神・タケミカヅチは日本最強・最高の武神とされていますが、タケミナカタの実力は本来ならばタケミカヅチに(勝るかどうかまではわからないが)劣ってはいない。男気が諏訪の地元の神々、そしていつしか民衆にまで知られることとなったのでしょう。武威に優れ、あらゆる武器に通じた武士(もののふ)の守護神として。諏訪の地に住む水を司る神として、五穀豊穣と狩猟の神として。そしていつしか、諏訪大社の伝承で英雄神の姿で伝えられ、人々に信仰されていくことになるのです。その遺風が「鹿の頭部」を神に捧げる諏訪大社・上社の神事「御頭祭」に残っており、その優しくも心の強い御神徳は、全国でも有数の建立数を誇る「諏訪神社」として後世に残ることとなります。なお諏訪の地に移ってからのタケミナカタは、山の神・水の神として、地元の人々とその生活を守護します。しかし古来より特に「風神」としてのタケミナカタが有名でしたので、諏訪大社には「風祝(かぜはふり)」と呼ばれる「タケミナカタに平穏を祈る専門職」の人々が存在していました。神仏習合の時代には、京都を中心とする寺社で風神・雷神の像を建立するのが流行しますが、このころ風神・タケミナカタと雷神・タケミカヅチが出雲と諏訪のほぼ中間地点である京都で酒を酌み交わし親友となったことから、そのような風潮が地上の人々にも生まれたのだ、というちょっとユニークな古説もあります。
左上:タケミナカタ
右上:風神の長は竜巻も軽々と操る
右下:諏訪大社・下社秋宮の奉納舞
左上:諏訪大社・上社「御頭祭」