- 「アテルイ」は善か?or 悪か? -

2020/09/01

 

 

今回は9月の原稿なので、秋らしく(まだまだ暑いが、〇〇の秋という主旨で)ちょっと趣向を変えてみようか。歴史上「奈良時代末期~平安時代初期」に「蝦夷の王」とされた「アテルイ」を、今回の題材としてみたい。

 

アテルイとは、一般的には古代の日本で「朝廷に反抗した東北地方の蝦夷の首魁」「坂上田村麻呂に征伐された悪王」など、古代の反権力代表として記している仮説が多い。だが真実は違う可能性がかなり高い、ということを皆々に示しておきたいのだ。

ちなみに「アテルイ」は、漢字だと「阿弖流爲/あてるい」「大墓公阿弖利爲/たものきみあてりい」などとも書く。

 

まず日本という国は、もともと「大祓詞」をはじめとするいくつかの古い「祝詞」にも書かれているように本州東側〜以北は「大倭日高見國/オオヤマトヒダカミノクニ」が正式な名称であった。記紀(※古事記・日本書紀の総称)にある日高見国の記述を見るとわかりやすいのだが、日本の国民が日本という国の古代史を遡る上では、こう考えるのが正道というわけだ。

 

当時の時代背景を鑑みると、時が流れるにつれ「大倭/オオヤマト」の部分だけが残り「日高見國/ヒダカミノクニ」が消え去っていく。どういうことかというと、この時代は律令国家を目指す朝廷の意向で「漢字」への文字統一が実行、推奨されていた時代であり、歴史を記録する「史部/ふひとべ」という下級文官が集う場面には「帰化人」が積極採用されていたことから、だんだん日高見國の記載が減っていったという解釈が正解だろう。

近代~現代日本の仮説で見る、特ア三国から来た帰化人の手により、日本という国に対する悪意から「わざと」そうした、という解釈は違うようだ。

 

当時、大陸の戦乱を逃れ、安住の地を求めてやっと辿り着いた「新天地」で、漢字が書けるからという理由で文官に積極採用してもらったことに感謝していた一族たちの心情は、古史古伝にも時どき垣間見える。より時代に適した表現で、新たな母国となった国の後世に残していきたい。こういった誠実さと向上心からくる善意により「大倭/オオヤマト」を強調してきたがために、「日高見國/ヒダカミノクニ」が記録上ではだんだん省かれるようになっていった、というのが正しいと見ていいだろう。

 

記紀では、高天原の天津神々が最初に降り立つのは九州なのだが、古代日本の国体としては、じつはもっと古い神代より、太陽が昇る「東」すなわち「大倭日高見國」を中心とした小国連合として治世は始まっていたと考えられる。超古代、まだ緑の残るアフリカ大陸北部から出発した「ミトコンドリア・イブ」の子孫たる、太陽信仰を持つ人々の一部が、世代を越えて東へ、東へと進み続けて、ついに辿り着いた東端の土地、日本列島。ユートピアにふさわしい「神の国」こそが今の日本列島であったのだ。

 

縄文時代以前の人口分布は、遺跡の数で判別できる。

放射性炭素年代測定法という、夏島貝塚の縄文時代早期の層から出土したカキ殻と木炭を分析した方法で、遺跡の遺骸から年代を割り出すと、縄文時代以前の遺跡は圧倒的に中部・関東・東北に集中していたのだ。なんと、当時の日本列島では総人口の約9割がこの地域に集中していたという説もある。

 

その後、現在の歴史書(教科書等含む)では「縄文時代後期〜弥生時代初期」とされている時代になって、中東から「ユダヤ人の一族」も移住してくる。この時代になると、地球上では寒冷化が始まってきており、現代の気候風土にも近い寒冷な東北・北海道ができあがってくる。日本列島の東側地域では、徐々に人が竪穴住居では過ごせなくなってきて、日高見國から西へ、西へ、と、だんだん「倭国」と呼ばれていた日本列島の西側地域に人口が移動していくことになる。古代日本国民による「西」への民族大移動である。ちょうど「神武天皇」が治世の時代と重なるのが、矛盾する古代史としてもおもしろいところだ。

 

とにかく、こうして日本列島の東側地域「大倭日高見國」は時代と共に、その規模が縮小していくことになる。この縮小の流れに乗ることなく、西側に移動しなかった日高見國の末裔たち。その末裔の指導者層の一人こそが「アテルイ」であった。

 

 

ところで。「鹿島神宮」の敷地内にある「宝物館」には、アテルイの顔として有名な「御面/おめん」が展示されている。アテルイは「古代アイヌ民族」だという説があるが、その顔を見ると、明らかに違うと一目でわかる。アテルイには、じつはユーラシア大陸西部から日本列島に流れ着いた、西方ユダヤ系民族の子孫であったという説がある。この説では、古代日本に帰化して以後は日本人として日高見國で暮らし、東日本の土地に同化していったユダヤ系知識層としてアテルイを評しているわけだ。

 

当時の古文献から推察するに、アテルイの率いていた軍は人数こそさほど多くはないが精鋭で、とても強力であり、大陸型の戦争で使われるような戦略、さらに独自の戦術・兵法にも長けていたようだ。

例えば、アテルイ軍は坂上田村麻呂に敗れるまで2度も朝廷の大軍を打ち破っている。いずれも、圧倒的損害を与えた「完勝」であった。

最終的に、坂上田村麻呂はなんとか(だまし討ちに近い方法で)勝利を掴むが、その後に捕えたアテルイを懲罰することなく、そのまま東北を統治させるべきだと朝廷に述べた。

 

坂上田村麻呂は、日本に同化したこのユダヤ系日本人を信頼したのである。

 

毘沙門天の化身、北天の化現、などとも評された坂上田村麻呂が、そこらの俗人的な悪王を「統治者」として承認すべきだと推挙するとは、とても考えられない。アテルイは「敵ながらあっぱれ」な大人物だったということになる。

 

あなたが、もしこの「アテルイ」という太古の王(人格神)に興味を持ったなら、いつか、岩手県奥州市水沢にある「日高神社」を訊ねてみると良い。

この一帯は、超古代に「大倭日高見國の都」があった地域だ。大倭日高見國は東北以北~北海道、さらに樺太~千島列島までを支配地域としていたとも考えられる。

ちなみに、青森県三戸郡新郷村の「キリストの墓」は、この神社から「真北」の直線状にある。じつは南に行くと奥州・藤原氏の栄華を遺した世界遺産「平泉」の金色堂があるエリアとも、さらにもっと南に行くと伊達政宗で有名な伊達氏が庇護した奥州一宮「鹽竈神社」とも、この直線=レイラインは繋がっている。ちなみに伊達氏は、藤原北家魚名流の流れを汲む北家支流である。

 

もし「日高神社」に赴き、あなたの「自運」に至った神代文字で書いた「祝詞」でも奉納したなら。

あなたにも「おもしろいこと」「楽しいこと」「びっくりすること」「嬉しいこと」etc...ちょっとした褒美として何かがおこるかもしれない。又は、もしかしたら、あなた自らがなにか「すばらしいこと」に出会うのかもしれない。

 

「おもしろいこと」とは「なにか?」と思うだろうか。

ただその内容は、個々人によって御神徳や事象の具体的な現れ方が違う、ということもあり、なによりも、あなたの「その時」のため「お楽しみ」としておこう。

 

わたしが書いてしまうと、楽しみが半減するであろうから。

 

 

秀麻呂