- 古代の日本海勢力は強大だった -

2023/06/01

 

 

先日ひさしぶりに福岡県へ赴くことになり、現地では古代邪馬台国の女王「卑弥呼の墓」とされる場所に案内されたのだが。しかしそこは、夏みかん(甘夏)の畑に囲まれた、明らかに手入れされていない、見ようによっては雑木林にも見える小さな丘であった。案内看板が1枚あるだけで、これでは初代アマテラスの説すらある古代の女王が浮かばれないと、その場にいた誰もが残念に思う状態であった。

 


 

 

そこでわたしは、この場所に新たな「神社」を建立することはできないだろうか?などと検討しているところである。上手く事が運んだら、神社の名は「日乃宮」とでもしようか。

 

ところで「邪馬台国」という漢字だが。これはいわゆる「当て字」だったという説が濃厚で、本来の古代呼称が意味する文字なら「大和帝(大)国/やまとていこく(やまとたいこく)」とするべきところであった。古代九州地方の「イントネーション」やユーラシア大陸東部にあった「魏国」の「聞き取り=発音の誤差」から「やまたいこく」に取り違えられ、後に「唐」の国の写本で適当に当てられた漢字が「邪馬台国」ということらしい。「卑弥呼」の漢字は古代当時にかなり適当に当てられた文字だったということが、今ではだいぶ知られるところとなってきている。実態と照らし合わせると「日巫女」「陽御子」「妃神子」などがきっと妥当なのであろう。信憑性の高い仮説にもよく登場する。

 

この時代の前後、山陰から北陸にかけての日本海沿岸地域に存在し、対馬海流を利用した「海の道」を使って交易で栄えた国。それこそが「出雲王国」だという、ほぼ確実視されている信憑性の高い仮説がある。この根拠は、当時ヤマト王権の傘下に併合する道を選択した出雲王国だったが、後年には506年の「武烈天皇」崩御により旧敵ヤマトの後継者が途絶えるタイミングがあった。そして、ここで「男大迹王/おおどのおおきみ」という「応神天皇の5代孫」とされた越の国(現在の北陸地方一帯)を支配している「豪族の王」は、なんと次の天皇に大抜擢されている。この越の国には「九頭竜川」という河川があり、丸岡/松岡古墳群では金銀をあしらった銅冠が出土している。ヤマト王権が「太陽信仰」なのに対して、古代出雲王国には「龍神信仰」があったことから「男大迹王/おおどのおおきみ」とは、出雲王国の後裔であり「応神天皇の5代孫」というのは、整合性を持たせるための後付けだったと考えることができる。

 

なぜこのような説が確実視されているのか?というと「応神天皇の5代孫」にも関わらず「男大迹王/おおどのおおきみ」を天皇に推挙した「大伴金村/おおとものかねむら」が、他の政権有力者たちから猛反発を受けており、そのため「男大迹王/おおどのおおきみ」が大和国に入れたのは「継体天皇」として即位してから、20年も経ってからなのである。むしろ「応神天皇の5代孫」とされたのはこの時ではないのか?というわけだ。わたしもそう思う。

 

2014年、出雲大社の権宮司「千家国麿さん/せんげくにまろ」と憲仁親王の第2子女「千家典子さん(旧・高円宮典子女王)」が結婚した時、世間では天津神(大和)と国津神(出雲)の和合のごとく報じた時期があったが、じつは前述の通り。とっくの昔に大和と出雲は和合しているのだ。その証拠に「継体天皇」となった出雲王国の後裔は、こののち九州で起きた「磐井の乱」を鎮圧しており、これでヤマト王権の国造りが一応の盤石となった。出雲出身の豪族の王が、大和朝廷の国づくりを積極果敢に進めたのである。なぜか?もちろん「国のため、民のため」である。平和のためであり、万民に安寧と幸福を供与するためである。

 

さて、翻って現代日本の政治家だが。彼らにもこの「国のため、民のため」=「仁義」の精神性を持たせるには、すべての国民が選挙にもっと参加するしか手はあるまい。

議員のポジションを得るため、得たポジションを守るため、自らのキャリアが最優先の政治屋。こんな輩が人の上に立ってはいけないのだ。

 

実は、そろそろ解散総選挙の風が吹いてくる可能性がある。そろそろ本格的に、日本国民の投票率をもっと上げていこうではないか。

 

 

ではまた。次回のアメノマナイをお楽しみに。

 

秀麻呂