- 災いは「穢れ」から始まる -

2020/07/01

 

 

「夏越大祓」も終わり、今年も下半期に入った。そこで、今回のアメノマナイでは「穢れ」について記しておこうか。

 

「かしこくも神代の昔、イザナギノミコトの黄泉(よみ)の穢れに交じり給ひしより初めて、妖神邪気世に出現し、天下の人民をして正道を誤らしめ、悪人に福し善人に禍して世界を擾乱(じょうらん)せむとし、また人の私欲を進めて正心を昏(くら)まし、その人の私心に乗りて悪欲を長ぜしめるに至る。」

 

 これは、明治時代に活躍した神心の巨匠、宮地水位先生の手記の一節である。

 

祝詞に「禍神(まがかみ)の禍事(まがごと)に相交(あいまじ)こり相口会(あいくちあ)う事無く」とあるのは、このような妖神邪気の影響、さらにはその憑纏(ひょうてん)を受けないようにという意味であった。

 

 古代の神伝によれば、禍事・非事(ひがごと)という災いのそもそもの根元は、実に黄泉(よみ)の穢れに触れることより惹起(じゃっき)するので、神心の道においては諸々の罪穢れを祓い清める神事修法が伝承され、修道祭祀の根本となっている。

 

別の機会にでも詳しく記したいと思うが、結論としてこのことは、実は古代の日本(の前身であった超古代国家)こそが、地上における神心の道の「宗主国」であった証でもある。

 

 「穢れ」とは「気枯れ」でもあり、生気(清気)が枯れることによって意気消沈すると、運気が下降してさらに災いを招き、またその生気が全く枯渇してしまうと、遂には死にも至りかねない。

 

 その穢れを払拭する清祓(せいばつ)のことについては、日常生活の上でも大変重要なので、江戸時代の国学者、本居宣長先生が「玉鉾百首」に詠まれた歌を参考に紹介しながら解説してみよう。

 

 「家も身も 国も穢すな穢らはし、神の忌みます ゆゆしき罪を」

 

 この意味は「家内も身体も国内も穢すことなく清浄にせよ、なぜなら穢れは神が忌み嫌う忌々(ゆゆ)しき罪であるからだ」というもので、穢れは神が忌み給う罪であることを詠んでいる。

 

 

 「穢れをし 罪とも知らに 禊がずて 默止(もた)ある人を 見るが いぶせき」

 

 「知らに」とは「知らずに」という意味で、「默止ある」とは、「なすべきことをせずにそのままにしておく」ことをいう。また「いぶせき」は、「憂鬱で心がもやもやしてさっぱりしない」ことで、穢れを罪とは知らずに禊ぎを行わない人を見ると、汚らわしく、むさ苦しく思われることを詠んでいる。

 

 

 「罪しあらば 清き川瀬に 禊ぎして 速秋津姫(はやあきつひめ)に はや明らめよ」

 

 「ハヤアキツ」は祓戸四神(はらえどよんしん)の一柱とされる姫神だが、とくにこの神の名を詠んでいるのは、「清め」ということに最も効験の大きな神だからである。この一首の意味は、「もし穢れがあるならば、清らかな川瀬に入って身を滌(あら)い、ハヤアキツに祈願して速やかに祓い清めよ」ということになる。

 

 

 ところで、実はキリスト教にも「原罪」という概念が存在する。これは「創世記」の伝承に基づいたもので、エデンの園において人類の始祖であるアダムとイヴが、蛇の誘惑によって「善悪の知識の木の実」(※いわゆる「禁断の果実」のこと)を食べてしまい、怒った主なる神によって楽園を追放されたというものであった。

 

ここの一説は有名なので、聞いたことがある人も多いだろう。

 

そしてこれは、人類が最初に犯したとされる罪で、その罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の救済なくして克服し得ない存在となったというのがキリスト教の概念だ。カトリックでは、洗礼を受け、キリストの奇跡を信じることによってこの原罪が取り除かれるとされている。

 

ところで、余談だが。実は、原始キリスト教の概念は若かりし頃のオオナムチ(後のオオクニヌシ)により古代出雲から追放された「八十神(やそがみ)」によってユーラシア大陸西部にまで持ち出された古代日本の神伝で、それが、時の権力者にとってかなり都合よく、しかも極端に簡略化されて訛伝(かでん)したものがカトリックの教えだ、という説もある。

 

 「枉事(まがこと)を 身滌(みそが)せれこそ 世を照らす 月日の神は 成り出でませれ」

 

 「身滌せれこそ」は「身滌(みそぎ)を行えばこそ」、「成り出でませれ」は「生れ出でました」という意味である。神伝によると、イザナギが禊ぎ・祓えの神術を行い、黄泉(よみ)の穢れを祓い清めた後、天地に輝いて世を照らす日・月・地(海)の三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)が誕生した。ならば世の人も、身に穢れがある時は身滌ぎを行って速やかに祓い清めるべきである、という意味だ。

 

 本居宣長先生は百首の内、この歌を巻尾に詠まれている。

 

 

ようするに、万霊万物を生み成したイザナギはアメノミナカヌシの後継的存在といえるわけだが、この大神がイザナミを失うという大凶事によって黄泉の穢れに触れ給い、その後の禊ぎ・祓えによって完全に邪気を払拭した直後に、日・月・地(海)の三貴神が誕生し、イザナギが「大(いた)く歓喜(よろこ)びて」というほどの大吉事が起こっている。

ということは、これこそが天地万物造化(天地・陰陽・+-の運行)の原理・原則、つまりは、宇宙エネルギーの摂理ということになる。

 

 激しい雷雨の後には七色の虹がかかるように。大きな嵐が過ぎ去った後は、清々しく晴れた朝を迎えるように。これと同じで、神伝には我々が学ぶべき宇宙・自然・神心のエネルギーにおける修道の真理が数多くある。

 

なにはともあれ。

せっかく縁あって、このアメノマナイを読んでくれたのだ。今年の年末には、あなたにぜひ「師走大祓」を推奨しておきたい。

 

 

秀麻呂