- 日本の教育が変わる時 -

2019/12/02

 

我々の属する修道というのは、元を辿れば古代の教育体系からその一部を現代的に編纂し、復古したものである。そこで、今回のコラムは「日本の教育」をテーマに執筆してみたいと思う。

 

まず、現代においてだが。戦後日本における教育制度というのは、とにかく「用意した答えに決められたルートで辿り着くこと」これを、ひたすら訓練するのがセオリーとなっている。

 

例えば、現在も英語の課題でよくあるケースだが。

生徒が自分なりに考えた解答が、英語でのコミュニケーションでまったく問題ない正しいものであったとする。しかし、ちょっと問題作成者の意図と違う英単語を使用してしまったりすると、真実は正解なのに不正解とされてしまう。

かくいうわたしも学校では同じ目にあった。

 

このように、小学1年生から「用意された答えに決められたルートで辿り着くこと」を、ひたすら繰り返していくのが戦後日本の教育制度である。

 

WW2の戦勝国群は、開戦当初の数年間日本軍に徹底的に敗戦し続け、アジア各国の植民地から撤退を余儀なくされた。そんな日本という国、資源が尽きても徹底抗戦し続けた日本と日本人を恐れ、逆らわない従順な洗脳を目論み徹底的にレベルダウンされた教育制度。

 

実際に現在の日本では、この教育制度の目論みが機能してしまった一面があるのだが、数十年を経て、結果的には一部の日本人がそれを糧にして賢者となった一面もある。

 

さて、ではこういう教育で育ったのはどういう人間か?

 

失敗をとても怖がる

大義が見えず枝葉末節にこだわる

ミスを避けようと発言が少ない

強者や権威に盲目的に従う

自分の意見を持たない

他人と違うことを恐がる

細かいことがとても気になる

etc、etc、、、

 

と、こんな人物の出来上がりだ。

子供の頃から指導する側の意に沿わない=「ミス」をすると点を失う「減点法」で評価され続けるので、保護者が「学校」という「手段」にだけ教育を任せてしまうと、それしか知らない子供たちは「ミス」や失敗というものに対して極端に不寛容な人間になるのである。

 

この教育制度だけに子を任せることは、子がその精神性を「敗者の鎖」に縛られることになる。そこに一部の親は本能的に気づくのであろう。

 

「これではいけない」と感じるわけだ。

 

例えば、子供のころから私塾、私学、家庭教師、海外留学、、、こういった学びの経験がある子供たちは、なにかの「光る才能」を持ちやすいように思う。

日本の教育制度を自らの意志でドロップアウトした経験を持つ人たちにも、同じことがいえる。

 

パラダイムシフトがどんどん進み、グローバルがあたりまえとなっていく社会で、現在の教育制度だけで国際競争力のある「人財」を育てることは、かなり難しい。

与えられたマニュアルに無いことには「思考停止」してしまう「人材」しか育ちにくい制度だからだ。

 

『教育』とは、国家百年の大計である。

今もいろいろと議論されているようには見えるが、そもそも議論する側の人選そのものが間違っている。国家観・世界観・愛国心。これらの揃った日本人が議論するのでなければ、何を議論したところで時間の無駄である。

 

今の議論は、どこをとっても、どこもかしこも、どれもこれも、枝葉末節の議論に終始している。

これまで繰り返してきたこと、その枠組みの中でああでもない、こうでもない。不毛な議論ばかりである

 

彼らは、ルールに従うのが大好きだ。だが、ルールに疑問を持ったり、ルールを新しく作ることはできない。

議論をする人間のほとんどが、今の日本の教育制度で育った人間なのだ。あたりまえである。

彼らの議論は、出口のない迷路なのである。

 

海外の例なのだが。

日本より国民一人当たりのGDPが高いとされる、ある国の小学校の実話だ。その学校には、政府から指定された教科書というものがない。授業でも、教科ごとに行なうのではなく、例えば「テレビのコマーシャルを見る」という課題が出る授業がある。

 

次の日の同じ授業では、何のためにテレビのコマーシャルがあって、どうやって作られ、何人のスタッフが関わり、予算はいくらで、利益はいくらで、スタッフ一人あたりの収入はいくら、というふうに計算をしていく。

 

これはひとつの授業の中で、社会と算数がミックスしているのだ。

教育に関する考え方が日本とは違い、社会生活に役立つ、実践的なことを学ぶことに重点を置いているので、この教育制度の中で育っていくと生産性の高い大人になる。

あたりまえである。

 

この国では、社会というのはさまざまなことがつながっており、子供たちが今、学んでいることは、区切った状況では成り立たっていない、という考え方が徹底している。

だから、公園でサッカーをやっているふつうの小学生と話をしても、社会のしくみをとてもよく知っている。日本の同年齢の子供とは大違いである。

 

ちなみに学年についても、柔軟な考え方をしている。年齢(誕生日)で学年が指定される日本と違い、この国では特に小学生のうちは可能な限り「能力」で学年を決定する、という考え方をする。

 

ある児童が学期の終了時期になっても算数の習得が不十分であったなら、先生と保護者が話し合い、児童にとってどういう対策がベストか検討する。その結果次第では、もう一度学期をやり直す=算数だけが留年、ということも「あたりまえ」だ。

今の日本では、小学生に留年などあったら大騒ぎになる制度であろう。そこがもうおかしいのだ。わからない子が「わかりたい」というのなら、それはわかるまでやればいいではないか。

 

その国では、子どもは『もう一度同じ学期ができるなんてラッキー』と言うし、親は『一度やっているからみんなより分かっていることが多いわ、自信を持って算数の授業に臨めるわね。』などと口々に言って、誰もがポジティブな考え方をする。

 

古代日本の教育と同じ感覚である。

 

今の日本で「勉強に励む」というと、教科書を読み、問題集をひたすら解き『教える側が要求した答えをミスなく正確に出す』という訓練をすることになる。

 

これは『教育』なのか?

 

国家において『教育の目的』とは、国民にはどういう人になってもらいたいか?という『国の意志』である。親が子に、どんな大人になってもらいたいか?これを真剣に、愛情深く考えるのと同じである。

 

幸いなことに。パラダイムシフトが始まって我が日本国の政府には『愛国者』がかなり多数派となった。賢明な愛国者たちが『日本の教育』を今のままにさせはしない。

 

「日本の教育が変わる時」が、ようやく来たのである。

 

ならば、お手伝い程度かもしれないが、我々一人一人も『国家百年の大計』に貢献していこうではないか。

 

 

秀麻呂