- 天は勇者を寵愛す -

2016/11/01

 

 

人の一生は「宿命」や「運命」というどうにもならない力で決まったストーリーに引きずられていく、という説がある。

 

断言しよう。これはウソである。

 

生まれた生年月日・時間がわかれば、その人の一生は手に取るようにわかるという者さえいる。

 

断言しよう。これもウソである。

 

但し「運は天にあり」「果報は寝て待て」これらはホントである。

 

だがしかし。いやしくも人の人生で、時を捨てておいて、手をこまねき、または、脇から見ているだけで成すことができることなど、どんなことがあるというのか。

 

天地人の理は、確かに決まった法則があり、それに従って寸分違わずに進んでいる。

 

天に左右される事業の代表格「農業」「漁業」はどうか。ほったらかしにしておけば、田畑には雑草が生え、獣に荒らされ、魚群はどこかに行ってしまい、収穫・漁獲はままならぬであろう。

 

学問、競技、仕事、生産、交通、、、なに一つとってもほうっておけることなどない。

 

だがしかし。毅然とした心をもって奮い立ち、英知をもってことを行えば、道は必ず開ける。天は勇者を見ると必ずといっていいほど寵愛する。

 

ぐずぐずしていてはいけない。

 

フランスの作家、フランソワ・ラブレーという人物がその昔、こういった。

 

「チャンスは前頭部にしか髪が生えていない。後頭部はハゲている。もしこれに出会ったなら、前髪を捕め。一度逃がしたら、神でもこれを捕らえることはできぬ。」

 

フランス人はおもしろい表現をする。が、たしかに神が寵愛する勇者には特徴がある。

 

目の前に現れたあらゆるチャンスをチャンスとして捕え、即断即決で善処する。こうと目的を定めたら、初志貫徹・終始一貫、やってやってやり抜く。

 

勇者の特徴は、世にいう成功者の特徴だ。

 

「天は自ら助くる者を助く」日本語の方がわかりやすいか。

 

ぐずぐずして、いくら時があっても手を出さない。何か困ることにあうとすぐに止める。

 

これでは勇者にほど遠く、神の寵愛も得られないだろう。

 

三重苦の天才ヘレン・ケラーを知らぬ人はいないであろう。ではその生みの親である師はどうか。名をサリバンというが、いかようにして才能を見抜き、三重苦を克服させて、大天才へと成長させて世に送り出したのか。

 

サリバンはヘレンというチャンスを捕らえたのである。

 

「己の運命は己の手にあり。与えられる天啓は無限である。」

 

境遇を嘆くのは無意味だ。なぜなら、嘆いているそれは、運命ではないからだ。決まっていたからそうなったのではない。己の心が求める方向に境遇はこれからまだまだ変わるのだ。

 

以前に、ちょっとした依頼で「うつ病」の患者を集めた会合というのを見学したことがある。当然だが、それは陰鬱な話をしている。全員がそうだ。場はどんどん沈んでいく。泣く人さえいる。

 

あぁ、これではこの人たちは幸せになれないな。そう思った私は、その場で即、当時は吉本興業に勤務していた旧友に電話だ。

 

「誰でもいい。空いてる芸人さんを最速でここに連れてきてくれ。」

 

持つべきものは友である。場所が都内だったこともあるが、ものの1時間もしないうちに4組の新人芸人さんが来てくれた。

 

そして。1時間後には、爆笑の渦である。うつ病と診断されても、人は愉快ならば爆笑するのである。帰りには施設のマネージャーと思しき初老の男性が私を呼び止めていう。

 

目からうろことはこのことです。医師や同業の話、本に書いてあること、それがすべてではないことがよくわかりました。ありがとうございました。

 

正確には覚えていないが、確かこんなことだった。

 

泣きっ面にハチ、弱り目に祟り目。

 

心が鬱々としていれば、その環境は梅雨時のように湿っぽく、敢然として心を開き行動すれば、陽光青雲・天地一碧たる素晴らしい景色が目に見える。

 

己を開運するのは己の意志である。境遇をつくるのは己の行動である。

 

まず己ありきなのである。己が意を決せねば、神とて何もできない。

 

 

秀麻呂