- 『ホツマツタエ』を研究しよう -

2023/10/02

 

当流の書生や会員、及びこのコラムを見ているような方々なら、古事記や日本書紀の原書であるとの仮説も知られるヲシテ文献こと『ホツマツタエ』については、ほとんどの方が名前くらいは知っているだろう。

 

一応付記するが、このホツマツタエは元祖・日本神話ではないか?と伝わる「超」古代神話で、諸説ある日本の古代神話の中でも非常に重要な役割を果たしていたとされる。

 

例えば、古代日本列島の言語として、一から十の数は以下のように数えていた。

 

《 ひ ふ み よ い む な や こ と 》

 

ひー1

ふー2

みー3

よー4

いー5

むー6

なー7

やー8

こー9

とー10

 

数字を当てはめるとこうなる。

 

現代の日本における一般社会では日常としてほぼ聞かないだろうが、日本人であればそれほど違和感なく読めるはずだ。

 

ちなみに、二十は『はた』であり、三十は『みそ』で、四十は『よそ』と読む。これを知ると、日本語では日常的に『はたち』や『みそじ』などと年齢を表す言葉として使っているので、誰もがなじみのある表現になるであろう。漢字や欧州の言葉と交わり、次第に廃れてしまった古代言語も、その遺伝子は今でも日本語の中に現存している。

 

さて、この『ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と』だが、これを詳しく紐解いていくと、古代日本列島に住む人々が持っていた思想の一端を知ることもできる。

 

この一から十まである「ひ」から「と」までは全体で『人』を表してもいるのだ。古代の人々は、人というのは一生を『ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と』の十段階で成長していくものと考えていたわけだ。

 

どういうことかというと、一から七、つまり『ひ』から『な』は雛の状態を指している。次に八と九の『や・こ』では、例えば漢字なら接頭語の御をつけて『御やこ』、すなわち「みやこ=都」又は「おやこ=親子」を表す。雛は都へ赴き『と』の段階を目指す、雛は親となり『と』の段階で子を持つ、というわけだ。そして最後の『と=十』だが、この『と』とは「トホカミエヒタメ」の八神の中で日本列島の統治を任されていたのが「ト」という名の神であり、人々にとっては、「トの神の教え」を表現している。

 

このように、子が巣立ち、教養や道徳を身に着け、一人前になるまでの段階を『ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と』という一から十の数えとして示していたわけだ。

 

『ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メ』についても触れておこう。

 

超古代の天皇は、日々この『ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メ』の呪文を40回唱えることにより、アマテラスに感謝と労いの気持ちを示し、自らはアマテラスと一体化することができ、それにより常人の及ばない威光を放ち、偉業を成し遂げることが可能となったとある。

 

『ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メ』は、それぞれが神の名であり『ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メ』という古神道の祝詞としても現代に伝わるが、普通に生活している我々にとって滅多に耳にする機会がないだろう。

 

なぜならば、この『ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メ』は古事記や日本書紀、いわゆる記紀にはまったく記述がない。ではいったいどこから『ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メ』という呪文が登場したのか?というと『ホツマツタエ』という超古代の歴史書にその記載があったわけだ。

 

この『ホツマツタエ』は、日本固有の神代文字の一種に数えられる超古代文字によって書かれた歴史書であり、内容は古事記や日本書紀など記紀と書いてあることがとてもよく似ているが、アマテラスをはじめとする記紀で神々と表現された登場人物が、実在した人、主に「皇族」として書かれており、紀元前5000年以前からの日本列島や古代の世界観、古代日本人の物事における視点や考え方が書かれている。

 

『ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メ』を「神」と表現したが(書物内でも『カミ』と記述はされているが、実際は「統治者」とか、後の人々にとっては「ご先祖様」と訳した方が、実際の意図に近いだろう)『ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メ』の実体は初代天皇「クニトコタチ」の八人の皇子のことであり、トに当たるクニサツチトノミコトが二代目、古事記の国産みストーリーで有名なイサナギとイサナミは七代目に該当する。

 

日本固有語の古代文字で書かれていることから、漢字渡来以前の書物であって、記紀よりも古い日本最古の歴史書と言って差し支えはないはずだったのだが、その情報は一切表舞台に姿を表さなかった。明治維新以降のご都合主義による弊害とでもいうべきか、歴史学的な見解では正しい歴史書とすることに賛否があるから、ということだ。

 

主な理由は『ホツマツタエ』が江戸時代という超古代の古文書にしては後発で発見されたことと、エビデンスとなる文献の少ないことだという。一部の歴史学者に言わせると、後世の日本人が「古代の日本人はこうあってほしい」という願望をもとに作成したのではないか、というのが見解だそうだ。

 

そのため、今でも公式な日本の歴史では、記紀こそが日本最古の歴史書、神代文字も諸説あるので、漢字が中国から伝来するまで日本に文字はなかったというなんのエビデンスもない歴史学者の理屈がまかり通っている。(エビデンスが「少ない」のではなく、エビデンスがこちらの説には「無い」のである)

 

信憑性という主旨だと、記紀に富士山が一切出てこない。なぜだ?おかしいと思う人がほとんどであろう。

 

古事記ではヤマトタケルが関東に遠征するストーリーがあるが、あんなに目立つ日本一の霊峰を眼前に、何のコメントもないなどということはありえるだろうか。『ホツマツタエ』ではアマテルカミ(天照大神)が産まれた極めて重要な場所であると書かれているのに対して、記紀では丸ごとカットされているのである。

 

漢字渡来以前に、日本海の左側にある国にデータ上で抜かれたとはいえ世界第3位の経済大国、日本。これだけの文明を有する民族に「文字がなかった」というのは単純におかしいだろう。日本人が漢字を使い始めたのが4世紀後半の弥生時代とされているが、その頃のユーラシア大陸では西はローマ帝国全盛期、東は中国が三国志の時代が終わっている。

 

歴史学者が推奨する史料によれば、日本人は漢字が渡来してから、元々の読みに加え、訓読みやひらがな・カタカナなどいきなり多様な応用をやってのけている。しかし文字を持たなかった民族が、いきなりそれだけのことをすることがはたして可能だろうか。わたしの感覚では、元々あった文字に漢字を当てたと考えるほうがしっくりくるのである。

 

記紀が編纂された時代と照合すると、さらに疑念が深まる。

 

天武天皇が古事記の編纂を命じた7世紀後半は、壬申の乱という古代日本列島で最大の内乱が起こった時代であった。この権力争いが内容に何らか影響している可能性は非常に高い。記紀の編纂には中国や朝鮮から渡来した人物が関わった形跡が多く残っている。

 

現代でいうところのコメンテーターとして漢字のアドバイスを目的にやってきたというポジションの渡来人が、そのアイデンティティを損ないたくないがために、古代日本の歴史の事実を揺るがしかねない情報に何かしらの細工をした、と考える説もあるが、これ自体はおかしなロジックではない。

 

元々、この『ホツマツタエ』は、神代文字の一種に数えられる古代文字『ヲシテ文字』で書かれている。

 

ヲシテ文字は一音一字の表意文字である。現代でいう「ひらがな」のような使い方の文字である。母音のアイウエオと子音のアカサタナハマヤラワに対応した相関図があり、その組み合わせで実にわかりやすく表現されている。一見すると、象形文字のようでもある。

 

表意文字なので、一字にそれぞれに対して意味がある。現代のひらがなと違うのは、音のみを表しているのではなく、『あ』であれば「天(宇宙)」とか「始まり」といったように、それぞれに対応した意味が別に存在するところが違う。

 

古代日本人の優れた感性で記述された世界観というべき『ホツマツタエ』は、長らく忘れられていた、日本のアイデンティティとしてふさわしい素材である。感性、哲学、それらの源泉がどこから来たものなのか。『ホツマツタエ』を読んでいくと、それらが理解でき、超古代の日本をイメージできる。

漢字なら幾万文字、その他の国の言語でも常用に数千単語は必要なところ、一音一字の表意文字=ヲシテ文字は、たったの48文字でOKなのである。それも筆記に数画しか用いないシンプルな文字を覚えれば済んでしまう。

 

言語は複雑になればなるほど格差を生む元になるが、古代日本人は格差を良しとはしなかったことになる。

 

今まで生きてきて何となく培った日本の国民性や倫理観、道徳、哲学、押し付けのない柔かな魅力が『ホツマツタエ』にはある。そのためか、歴史学者を名乗る否定派をスルーして、どんどんファンが増え続けているのである。

 

 

ぜひ今こそ。みなさんにも、ホツマツタエを研究してもらいたい。

 

 

秀麻呂