- 日本神話と邪馬台国・出雲王国の関係 -

 

 

2023/12/01

 

みなさんの「2023年」は、どんな年だっただろうか?

 

わたしの2023年をひと言でまとめると、とにかく「スピードとジャッジ」の1年であった。

あれやこれやと大小様々な事案が飛び込んできたかと思えば、そんな時に限って楽しい話もスケジュールが重複して飛び込んでくる。パラダイムシフトというのは、このように個人レベルにまで落とし込むと不思議に感じることが多いものなのである。

 

ところで我らが「日本国の七不思議」の代表格といえば、やはり「ヤマタイコク」なのだろう。

 

現代では当て字の「邪馬台国」として認知されているが、日本史の記録としては登場してこないヤマタイコク。本来の当て字では「大和大国」とも「大和帝国」とも、説としてはいろいろあるのに、未だに確たるエビデンスが出てこないヤマタイコク。

 

古事記や日本書紀では、あえて記録を抹消したのか?そもそも記録がなかったのか?

 

 

そこで今回、日本神話と「ヤマタイコク」「イズモオウコク」の接点を少し記してみようと思った次第である。

 

 

話の流れとしては出雲からが良いだろう。

出雲といえば、まずはなんといっても出雲大社だ。祀られる主祭神は、日本人なら知らぬ人はいないであろう「オオクニヌシ/大国主大神」である。毎年10月、神在祭の期間中は日本国内及び周辺諸国すべての神々が集い、会議を開くという。まさに神々の故郷と言うべき出雲。

 

じつは古事記の神話にある記述では、その1/3が出雲の話である。

 

主要なキーワードを挙げると、スサノオ、ヤマタノオロチ、黄泉の国、因幡の白兎、大国主、国譲りなど。誰もが一度は耳にするキーワードばかりだ。

 

「WW2」後の歴史学は、皇国史観に利用された神話を神経質すぎるくらいに排除した。だが、近年こうした神話を見直そうという気運が強くなり、考古学的には遺跡もいくつか発見されている。奇しくも、2012年に「古事記撰上1300年」となり、2013年には出雲大社と伊勢神宮の遷宮が重なり(伊勢は20年の式年遷宮、出雲は70~80年の不定期)俗世の話題も集めた。

 

出雲王朝の存在を示す遺跡調査としては、島根県出雲地方の遺跡だけで荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、西谷墳墓群、などの存在が実証された。特に1980年台から1990年台にかけての遺跡調査では、出雲周辺から大量の銅剣・銅鐸が出土した。

(荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡など~荒神谷遺跡からは358本もの銅剣や16本の銅矛が、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土している)

 

特に荒神谷遺跡の銅剣(358本)は、それまでの日本全国の出土総数を上回るものであった。

 

また、出雲市大津町では弥生時代後期(2世紀末から3世紀)のものと思われる墳丘27基が確認されている。(西谷墳墓群)これは弥生時代に出雲を支配した王たちが存在したエビデンスといってよいだろう。

 

つまり魏志倭人伝に登場する「ヤマタイコク」よりも前の時代から、ヒミコ(当て字は卑弥呼、本来は日巫女・妃御子など)が亡くなったとされる時代に出雲には有力な国家があったことになる。

 

神話では、「天岩戸⇒スサノオのヤマタノオロチ退治⇒大国主の国造り⇒大国主の国譲り⇒天孫降臨⇒神武の東征」とすすむのだが、おおまかには追放されたスサノオ(アマテラスの弟)が出雲でヤマタノオロチ(越国のことか)を退治(三種の神器の剣を得る)して、その子孫である大国主が国造りをして、天孫に國を譲り、その天孫の孫の神武天皇が東征(先祖は西から)してヤマトに入るというストーリーである。

 

この話から見えてくる盲点としては、現在の政権(ヤマト王朝)が「血縁関係があったイズモ王権から対等同化を目的にすることで平和的に政権を譲ってもらった(奪ったのではない)ということが推察される。つまりヤマトは前政権のイズモを否定するポジションではない、ということが推察される。

 

「アマテラス、ヤマタイコク、ヤマト王朝」が同一であったり、代々の連続性があると仮定すれば、じつは出雲の神話から大和王朝への流れは説明が容易い。古事記に「ヤマタイコク」と「ヒミコ」は登場しないが、アマテラスや神功皇后のような「女王」を連想させる女性は複数回登場する。

 

ここには、編纂者の何らかの意図(創作)が感じられるのではないか。

 

 

オオクニヌシ(大国主)といえば、出雲大社の祭神であり、現在では縁結びの神としてよく知られるが、もとは国造りの神、農業神として広く信仰を集めていた。大国主は国を譲る際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて祀れという条件を出したとある。

 

ちなみに、大国主を祀る主な神社は以下の通り

 

出雲大社(島根県出雲市)

大前神社(栃木県真岡市)

大國魂神社(東京都府中市)

氷川神社(埼玉県さいたま市)

大神神社(奈良県桜井市)

出雲大神宮(京都府亀岡市)

気多大社(石川県羽咋市)

気多本宮(石川県七尾市)

八桙神社(徳島県阿南市)

など

 

日本で最古の神社のひとつとされる大神神社(別称:三輪神社)の祭神は大物主神(オオモノヌシ)であり、これは大国主の和魂とされる。(和魂=幸魂/奇魂:さきみたま/くしみたま)

※「大物主」には大国主と一緒に国づくりをした協力者という説もある。

 

古事記には崇神天皇の時代に、「崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れて、意富多多泥古(オオタタネコ)に私の御魂を祀らせれば、収まるであろう」という主旨で、以下の記述がある。

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この天皇の御代に、役病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。

ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、

「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らかに平らぎなむ。」

とのりたまひき。

___

 

そこで、天皇は意富多多泥古(大物主の子か?)を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。

 

さらに続いて、古事記では垂仁天皇の時代に出雲の祟が起きたとある。垂仁天皇の子であるホムチワケが言葉を発することができないことに困り果てた天皇が、占い師に占ってもらう。そして、それが「出雲の大神のたたり」であることを知り、「大国主を祀って大御食を奉った」。するうとホムチワケは話すことができるようになり、それを喜んだ天皇は「神の宮」(出雲大社)を修繕させた、とある。

 

日本書紀では、斉明天皇の時代にも出雲の祟りがあったので「神の宮」を修繕させた、という記述がある。

 

すると、現在に広く伝わっている大国主への信仰心の大元は、菅原道真が天満宮に祀られたように「おそれ」によるものだった可能性もあるのかもしれない。菅原道真のように「無実の罪=冤罪」であったり、又は非業の死を遂げた者は「たたる」と考えられていたのが信仰の理由なので、大国主の国譲りが真実は平和的な「国譲り」ではなかったのではないか?という疑義があるのもしょうがない。

 

 

実際に、古代の出雲大社は現在の本殿高さ24mを大きく超える48mあった。この逸話を元に口遊(くちずさみ)という平安時代中期に編纂された児童書に「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という言葉の記述があるのだが、これは日本で最も高い建物の順番のことで、1位が出雲大社、2位が奈良の東大寺大仏殿、3位が京の平安京大極殿だったという。奈良大仏殿は46mほどあるので、それより高かったというのである。

 

出雲社の口伝では、上古(飛鳥時代)では32丈(96m)、中古(平安時代)では16丈(48m)あったと伝えられている。ちなみに平安時代のものと思われる平面図も残っている。

 

 

さて、ここから先はあれこれ記すと、個々人の向学するチャンスがおもしろくなくなってしまう可能性があるので、このくらいにしておこうか。

 

各位、考古学・歴史学の視点も神心書道の向学に加えると、よりおもしろく、吸収力の高い、活発な良き修道となるであろう。ぜひ探求心を以ていろいろチャレンジしてもらいたい。

 

 

秀麻呂