- 万物すべてに命あり -

 

 

「物にも命はある」というと、どう思うだろうか。

 

私の経験上では、一般の人たち相手に問いかけた場合はおもしろいようにちょうど「ある・ない」が「50:50」だ。半分の人は「ある」と言うが、半分の人は「ない」と言う。

 

これが当流の会員や関係者になると、これもおもしろいように「ある」が「100%」だ。少しくらい同意しない人がいてもおかしくない問いかけなのだが。おそらく、最初はわからなくとも知見によりわかってくるのだろう。

 

物にも命はある。

 

その衣服も、道具も、機械も、時計も、スマホも、車も、自転車も、バイクも、バッグも、お金も、すべて生きている。

 

大切にするのだ。使わなければいけない。

 

使わないなら、使ってくれる人に渡した方が物は喜ぶ。大切に使っていれば、その持ち主のために喜んで働き、粗末にあつかえば、拗ねてしまう。怒ってしまう。いつか去ってしまう。

 

いや。持ち主に反抗するどころか、度を過ぎれば噛みついてくることもあるだろう。ケガをした、失くした、盗まれた、壊れた、破れた。こういうことは、その物を大切にしなかった時におこりやすい。

 

朝から夕方まで道具を大事にして働いている職人たちが、その道具でケガをするということはほとんどない。

 

不平不満をブツブツ言いながら、または道具をまるで敵のように扱ったり、または機械を奴隷のように酷使している人ほど、その物に反抗され、時には大けがをする人もいるし、ケガこそしなくとも思うように機能してくれない。

 

仕事に精魂かたむけている優秀な職人さんは、道具の手入れをしっかり行うし、道具をとてもとても大切にしているものだ。

 

道具を己の手足のごとく大事に、大切にする。衣服なら自らの肌のごとく大切にする。タンスの肥しにするくらいなら、着てくれる人にあげて着てもらうことを選ぶ。

 

農業なら作物を、製造なら製品を、我が家に生まれた子犬・子猫のごとく大事にして、愛して、慈しむのである。そうした人たちの働きによって、この上もなくよい物が日本にはたくさん、それはたくさん産まれてきた。

 

物を象徴し、あらゆる「財」を具象化したものが現代では「金銭」である。金銭はあらゆる物の中でも特に繊細で、とても敏感な生き物である。

 

まず、大切にしてくれる人に集中して集まろうとする。無下にする人、ようするにムダ使いする人は大嫌いだ。

 

しかし使わない人が好きなのではなく、一番好きなのは「活かして使ってくれる人」で、そこに我こそはと集まる。

 

物は人と同じように生きている。人が「徳の高い人」の元に集まるように、物も「活かしてくれる人」の元に集まるのだ。物を「活かす」とは、使うべき時に思いっきり働かせることだ。

 

金銭であれば、ケチケチしているのは活かしていることにならない。繊細かつ大胆に、使うべき時には思いっきり使うことである。金に「あぁ、自分は全力を出し切った」といわせるほど働かせるのである。

 

自分一人の為に金銭を使いたい人というのは、金から見ると自分勝手に金の願いを無視する人ということになる。例えるならば、ある親が「運動が得意」な子供に「自分はスポーツ競技がしたい」というのを「うるさい、家にいろ」と縛りつけているようなものである。

 

これは金に対する「DV」ではないか。

 

ただカン違いしてはいけない。金銭に恵まれたければ無欲であれ、などというのではない。働いた対価として報酬を要求する、金銭を請求する、これはあたりまえのことである。

 

取るべき金銭を取り、請求すべき金銭を妥協なく要求することは、世の天秤である。得るべき金銭を自分の勝手でサービスなどしてはならない。それこそまさに「金神が怒る」である。

 

肝心なことはこうだ。二宮尊徳の「たらいの水」である。

 

「たらいの水を自分の方にかき寄せると、水は自分の向こう側に流れて行ってしまう。水を向こう側に押しやると、水は自分の方に戻ってくる。」

 

金も、物も、幸も、福も、人も、この原理である。

 

物はそれを愛おしむ人たちによって生み出され、大切にする人たちのために働き、活かす人たちに集まる。

 

生きているからである。

 

 

秀麻呂