2021/08/02
じつは「神代文字」というのは、昭和初期までには日本全国でおおむね発見・発掘されつくしており、特に「平成」以降は「神代文字で書かれた古文献が見つかった!」といえるようなニュース要素のある大きな出来事がなかった。
昭和後期から平成にかけての一時期に「古史古伝」がトレンドとなり、その影響で注目を浴びる、ということはあったのだが。その後は新史料の発見があまりないことから、神代文字の研究は停滞気味になっていた時期がある。
たまに古文献が見つかっても、1行にも満たない些細な事案がほとんどであったのだから、それもやむを得ないことだったのだろう。
・・・ところが。
平成の後半になり、神代文字の古文献が新たに、しかもかなり保存状態の良い遺物が発見されたことがある。どこで見つかったかというと千葉県の成田市、旧佐倉藩の総鎮守とされていた神社で、名称を「麻賀多神社」という。
国際空港で有名な成田だが、麻賀多神社は全国でもこの地域「だけ」に存在する神社であり、しかもこの地域には麻賀多神社ばかりが、なんと計18社もある。元々は「勾玉(まがたま)神社」と呼ばれていたとの古伝がある。
この神社群の中でも重要なのは「公津(こうづ)」と「船形(ふなかた)」の2社で、2社で一対の麻賀多神社として機能している。古代、神術により陰/陽それぞれの役割を持つ勾玉が地中に隠されたのだろう。
なお公津(台方)が近隣18社の「本宮」で船形は「奥宮」という扱いである。
(成田の船形は、次元が変わる場所である。パワースポットとして有名なのも頷ける。)
ちなみに台方の麻賀多神社境内にある「天之日津久神社」は、1944年(昭和19年)6月10日に「岡本天明」が、あの「日月神示」を筆で降ろすことになった場所である。
そして神職の太田氏に代々伝わっている蔵書の古文献の中に、なんと神代文字の古文献があったのである。
東京からほど近い千葉県の古社にこれほどのレベルの「スクープ」があるとは、その頃だれ一人として思っていなかったのだから、驚きの度合いも相当であった。
大陸から漢字が輸入される以前に日本各地で使われていた文字群のことを、現代では俗に「神代文字」というわけだが、そうした神代文字で書かれた現存する文献にはよく知られているものも多く、例えばホツマツタヱ、ウエツフミなどがある。「竹内文書」「宮下文書(富士文献)」なども、元々のオリジナルは神代文字で書かれていた。
となると、もう新しい発見はないだろう・・・と、誰もが思っていた平成の終わりに、これまでまったく知られていなかった「神代文字」文献の存在が明らかになったのだ。
ちなみに地図で示すと、印旛沼の東から南にかけての場所で、かつては下総国印旛郡、さらに遡ると印旛国と呼ばれていた地域である。麻賀多という珍しい名称をもった神社が鎮座しているのは全国的にこの一帯だけだが、これらのうち、本宮は成田市台方に鎮座する麻賀多神社、そこから北へおよそ1キロほどの場所にある、成田市船形に鎮座する麻賀多神社が奥宮というわけだ。
台方の麻賀多神社は、イザナミから生まれた穀物の生育を司るワクムスヒ(稚産霊神)を御祀りし、船形の麻賀多神社は、アマテラス(天照大御神)の妹神とされるワカヒルメ(稚日孁命)を御祀りしている。社伝では、応神天皇に仕えて初代印波(印旛)国造となったイツコリ(伊都許利命)によってワクムスヒ/ワカヒルメを祀る船形の麻賀多神社が創祀され、のちの推古天皇の時代にワクムスヒを台方に遷座してもうひとつの麻賀多神社が創祀されたとある。
いずれにしても、船形と台方の麻賀多神社は陰陽一対の関係であり、古来、伊都許利命の末裔といわれる太田家が両社の宮司を代々務めてきた。ちなみに、船形の麻賀多神社の境内には、伊都許利命の墳墓と伝承される方墳がある。
そして発見された神代文字の古文献は、その太田家に秘蔵されていたのであった。
ところで。
じつはあなたがお住いの地域にも、もしかしたら・・・まだ神代文字の古文献が秘密裏に隠れている、という可能性は大いにある。
もし万が一、その片鱗でも発見することがあれば、ご一報いただきたい。日本全国津々浦々、どこへでも喜んで駆けつけさせていただく。
秀麻呂