- 憂うな。信ずれば成る。-

 

 

自信のないことは失敗する。

 

練習をする、訓練をする、修練をする、これらはその競技なり、仕事なり、芸事なり、なんであれそれに慣れて間違いが無いようにしようとする行動だが、その本質は「信念」を構築するのが最大の目的なのである。

 

目的を達するには「信念」を練りあげるのだ。きっと出来る、絶対に勝てる、よしやるぞ、この動じぬ信念こそが、目的を実現させる。何ごとも成就させる。

 

「自分を信じる」と書いて「自信」という。自信とは「力の源」であり事業・商売ならば「推進力」である。「成就のエネルギー」なのだ。

 

信とは真である。これがあれば今は形としてまだ見えていなくとも、無意識の心ではもう成しとげているのだ。いずれ実現しているのだ。

 

信じるということは、事実がそうだったから信じたという客観的な過去のことではない。本当に信じれば未来がそうなるのであり、未来を必ず信じたとおりに成せるのである。

 

「信ずるが故に神あり」とは、このことをいう。真に信ずる者には、真の神が現れ力となる。故に「信は力」というのである。

 

人の肉体をローブで固定することはできる。しかし、精神をロープで固定することはできない。だから心はあちらにこちらに揺れ動く。人の精神を固定することができるのは、唯一無二。ただ「信じる」ことのみである。

 

「士は己を知る人のために死す」と史記にある。この「知る」とは今でいう「信じる」という意味だ。心の底から信じてくれる人には、ウソをつくことができない。真に信じている人をごまかすことはできないものだ。

 

人と人の交際原理は最終的に「信じる」ということに行きつく。何かを成す根源的な力は「信念」である。決心の強い・弱いによって競技や仕事の成否も容易に決まる。

 

決心をする、というのは今まではそうではなかったことを、こうしようと信念を固めることである。

 

「誓い」というのは、人と人が、複数の人、または人ではない何かと契りを交わして、こうすると信念を固めることをいうのである。

 

「祈り」というのは「神」と結びあうことにより現実化する信念を確立させる方法であり、天神地祇・天地宇宙に大きな信念を誓うのである。

 

「神に祈るなら、すでに成就したものと思え」

 

春日大社の花山院宮司が言った言葉だ。その通りである。

 

同じ日本の国民同士で、悪人を善人にする方法は一つしかない。信じてやることだ。悪人は信じられないのが世の常識であり心情的には当然である。だが、だから悪人が存在する「余地」がなくならない。

 

この論理は数学なのだ。究極は、余地がゼロなら現象もゼロ。余地があるから悪人がいる。

 

日本には日本の国柄というのがある。日本国民の血脈というのがある。本当はこれらに合うのは「悪人だから信じる」「信じたから悪はしない」なのだ。

 

信が動くと「愛」になる。

 

すべてを潤し、すべてを満たし、すべてを成す。「信」には欠点が無いのだ。

信は、成し、満ち、達す。

 

憂うのは「疑い」なのである。人は成すことができそうもないから憂うのではない。

「憂う」から失敗する。「憂う」から危ない。

 

病気なら恐れて「憂う」からかかり、長引く。憂うから悪くもなるし、重くもなる。競技・試験なら「憂い」が敗北を招く。事業・商売なら「憂い」から崩れる。

 

憂うことの逆に位置するのは「喜び」である。喜ぶのである。楽しむのである。希望に燃えて、信じるのだ。喜びから始め、信に至ればよいのだ。

 

愛は「信」より始まる「光」であり心の「火」である。現世の招福は「信」により成る。人生の乱れは「信」が欠けた時に起こる。

 

「信」とは「神」であり「真」である。

 

 

秀麻呂