- 最高の宝は己である。 -

 

 

人という生き物はけっこう愚かである。浅知恵なのである。なぜか?

 

世の中に1つしかない、自分にとって最高の宝を1番粗末にしている者が多いからだ。その宝とは、己自身のことである。

 

ずいぶん前になるが。

 

ある老舗食品メーカーの創業者が、代表職を退いたあと発展途上国の支援活動を自費でやっていた。

 

その方と食事をしていたさい、赤道付近の発展途上国で現地の人たちに「雨合羽」をプレゼントした時の話を聞くことがあった。本場のスコールでは傘などなんの役にも立たないからだ。

 

ところが。いざ雨が降り出すと、現地の人たちは雨合羽をていねいに折りたたんで自分が着ているTシャツの中に抱えてしまい、スコールの中を歩いて帰っていったという。

 

これは笑い話ではない。

 

例えば。宝石、時計、高価なバッグに高級車、現金など。大切にしていないか?ケチケチしていないか?

 

モノに限ったことではない。

 

人間は他人から悪く言われると腹を立てる。だがその反面、自分の心身は大切にしない者がなんと多いことか。

 

例えば、健康のことである。

 

人は適度に動いてさえいれば健康なのである。しかし怠けていれば、肉体は衰える。頭を使わなくなれば脳が衰える。

 

もっと楽をしたい、美味いモノを食したい、美味い酒を飲みたい。それ自体はけっこうなことだ。だが、働けるうちは働いた方が心身の健康に良いのである。

 

恐れ・不安・怒り・悲しみや不足不満の心は、あらゆる病気の元となるだけでなく、生活を不幸にして、学業・競技なら敗北を招き、事業・商売なら不振を招き、己の人生において、あらゆる不幸の原因となっていることを知るのだ。

 

さらに。己を大切にすることの究極とは「個性」である。個性を極限まで伸ばし、その個性を世のため・人のために役立てることである。

 

それを成すには、学問を怠ったり、仕事を怠けたり、研究を怠ったり、ともかく身を惜しんでいてはとてもできることではない。出し惜しみしては気づくことができないからだ。

 

そもそも、出し惜しみしていては個性に叡智が宿らないではないか。

 

己の身を捧げ、学問し、修練し、働き、事業・商売ならば注力し、目の前にある仕事に没頭する。それでこそ、はじめて人は己の持つ「個性」に気づくことができるのだ。

 

己の大きな成長、向上、発展、躍進、完成を願うならば、惜しまず身を捧げるのだ。そこにこそ真の幸福な個性が出現するのである。

 

己を尊び、人を尊び、出現した個性をそのままに。

 

世に、人に、奉じるがよい。自らの望む幸福がそこにはある。尊敬され、愛され、慕われ、物欲などは思いのままである。しかしその時、小さな物欲などは無きに等しい人の方が多いのだろう。

 

己の最高の宝とは、捧げることにある。身を、心を、時を、捧げて尽くすのだ。個性を伸ばすのだ。

 

個性で生きる段になれば、人の喜びが我が喜びとなる。世の喜びが我が喜びとなる。

 

がんばるのではない。身を、心を、時を、惜しまずに捧げるのだ。

 

 

秀麻呂