- 神の話をしようか -

たまには「神」の話をしよう。

 

世の無常を嘆いては「神も仏もない」などという人がいる。だがそれはカン違いなのである。

 

たしかに地震や津波、台風などの天災、悲惨な事故や犯罪を目の当たりにすると、神も仏もない、そんな気持ちになるのは共感する。まだまだ私も現世を生きる修道の身であるし、時には世の不条理に感情が先行することもある。

 

だが、まちがいなく神はいるのだ。仏もいる。天使や精霊、悪魔だっている。そもそも、これらもすべて神である。

 

カン違いされているのは「神」には善神しかいない、と思われていることだ。

 

太古の時代に「神」という言葉は「人知を超越する力を持つ者、またはそのなにか」という意味であった。

 

そこに「善」や「悪」の区別は存在していなかったのだ。だから善神もいるが、悪神もいるのだ。それに善神だって怒り暴れれば、エネルギー量が大きく強いだけに、害が及んだ側にとっては最悪の神だ。

 

手入れが行き届いた神社に祀られている立派な神は、そのほとんどが善神なので「参拝した神の善悪がわからない」などと怖気づく必要はない。

 

ただ、神職が常駐していない、手入れがされていない、荒れ放題、そんなさびれた神社は危険だ。元いた神はすでにどこかに去っており、別の違うなにかがいる可能性が高いからだ。

 

神は「えこひいき」をする。

 

神が「万人を平等に愛す」などというのはウソである。布教を使って侵略行為を目論んだ時代の名残りであり、21世紀の現代となっては偽善であり、ウソも方便といえるものだ。

 

あなたは神に「えこひいき」されたいと思うか?ほとんどの人は「イエス」と答えるだろう。

 

ではどうしたらよいか。まずは「えこひいき」してくれそうな神を知ることだ。

 

ごく稀に守護神が10も20も在る人がいるが、守護神の候補がいない、まったくのゼロという人は見たことがない。だから、そこは安心していい。

 

次にやるべきは、その「神」に気に入られることだ。

 

神が好きな人とは、人間同士の付き合いでも「この人とは仲良くしたい」と思う人だ。好みや相性に左右される面も大いにある。神により違う。

 

神が嫌いな人とは、人間同士の付き合いでも「この人とは仲良くなりたくない」と思う人だ。好みや相性に左右される面も大いにある。これも神により違う。

 

善神は嫌いだからといって人にバチを当てたりしないので、恐れる必要はない。だが願う先の神に気に入られていない人が何を祈ろうが、いくら大金を寄進しようが、その神は「無視」をする。

 

当然ながら、なにを願ったところでその神はなんの力にもなってくれない。まずは気に入られることだ。なんらかの理由でその神に気に入ってもらえないなら、違う神に願わなければムダである。「捨てる神あれば、拾う神あり」というではないか。

 

以前、青山学院大学の八木さんという教授が楽天リサーチを使ってアンケートを行い、おもしろいデータを発表したことがある。

 

項目は「神社への1年間の参拝回数」「年収」「幸福度」で、母数は400名。

 

年収500万未満が100名、500万以上~1000万未満が100名、1000万以上~1500万未満が100名、1500万以上が100名、計400名である。

 

回答者は「現在幸福だと思う」という問いに対して、次の5段階で回答する。

 

1:まったくあてはまらない

2:あまりあてはまらない

3:どちらともいえない

4:ややあてはまる

5:よくあてはまる

 

神社への参拝回数と年収と幸福度の関係をグラフにすると、こうなった。

 

 

特徴は、神社に2ヶ月から4ヶ月に1回ペースで参拝すると、年収と幸福度のバランスがピークになる。年7回以上通うと少し落ちついてきている。

 

神を敬う者は幸福感が高いので必要以上に金銭を欲しなくなるということか。しつこく神社に通っても強欲が満たせないと幸福感は満足しないということか。

 

注目すべきは、まったく参拝しない人たちだが、この人たちは年収が低く幸福度も相対的に低いという結果になっている。

 

さて。これを「あなた」の視点で見ると神とはどんな性格なのか?

 

「子供のころにお年玉や小遣いをたくさんくれた親戚のおじさん or おばさん?」このようなイメージを持った人は多いだろう。それは当たりだ。いわゆる守護神である。

 

守護神は、たまに行くと喜んでくれる。いつ行っても歓迎してくれる。ただ「お年玉」「小遣い」を目当てに行くと残念そうな顔をする。何かあったら力になってくれる。

 

もうわかったであろう。

 

神にも感情があるのだ。自分を慕う者がかわいいのだ。やみくもに「欲」を満たす要求をするものではない。まずは挨拶からだ。ちゃんとどこの誰なのか、自分の顔と名前を知ってもらうこと。そして次に感謝するのだ。それで「気に入られる」し「えこひいき」も「されやすく」はなる。

 

神はお見通しなのである。

 

欲の皮が突っ張った親戚の子が家に遊びに来るのと、なにを要求するでもなく心ばかりの土産をもって遊びに来た子と、どちらを「えこひいき」したいと思うか。

 

考えるまでもないだろう。清廉ならば、自然体でいいのである。ただ、それが大人には難しい。

 

自らを慕っている顔馴染みの者が、たまに些細な土産でも持って顔を出せば、神は嬉しいのである。嬉しいから応援したいのであり、必要な時に守護をしたいと思い、迷えば導きたいと思い、恵みを与えてやりたいと思っている。

 

神はいる。神への心がまえは、慕い、敬い、顔を出す。それが参拝の本質なのだ。

 

参拝とは一種のコミュニケーションである。

 

 

秀麻呂