- 自然や神々への崇拝がライフスタイルのお国柄 -

2024/06/03

 

 

昨今の世界情勢を鑑みると、人々の社会不満がどんどん増している。そこで今回の号では「神とのつきあい方」から記してみようかと思う。

 

まず前提なのだが。

 

人は「神の存在」を意識するようになると、心のバランスが整い、日々が充実する。特定の神と仲良くなってその神がいる神社に参拝すると、神がその人に何らかのプラスエネルギーを与えることもある。

 

では、そもそも神と仲良くなるには、どんなことを意識すればよいのだろうか。そこで、今号では神と接する上でのありようを記しておこうというわけだ。

 

 

例えばだが、家に手入れが行き届いた神棚があるだけでも、神と暮らしているわけだから少なからず運は良くなる。「普通の日々」にも感謝できるようになっていく。神棚は小さなマイ神社だと思うとわかりやすいだろう。

 

だいたいの人は神の姿が目に見えないと思うのだが、それは「とても大事な存在だから目に見えない」ということだ。もっとわかりやすく記すなら、例えば空気は人間の目に見えない。しかし生きていくには空気が必須であり「見えない空気より目に見える水のほうが優先順位は上だ」と言う人はまずいない。

 

人というのは目に見えない「空気」がなければ、生きていけない。心だって目には見えないが失えば生きていけない。そんな「目に見えない大事なもの」の中でも重要なひとつ。

 

それは人にとっての「神」である。

 

本来の神というのは、現代日本人の多くがそうであるような「信じる」or「信じない」で論じられる軽々しい存在ではなく、この世に実在するあらゆる「力」「エネルギー」のことである。中世日本には神仏習合がトレンドとなった歴史があるが、この時代があったことによる一番のメリットとして民衆にも「神とは力のこと」「仏とは法(=理/ことわり)のこと」と理解が普及するようになり、本来の修道というのはこの「力の正しい使い方を体得する」ことが本質的な目的としてある。

 

神を信じるというのは、空気が無ければ死ぬのと同じくらいあたりまえのことであり、さらに神の人格的側面とは「大事にする」ことで現生俗世のままでも仲良くなれる。

神を大事にするようになると、見えないままでも、何かを感じる=豊かになることができる。と、いうわけだ。

 

神に限らず、目に見えないものを「感じる」には、意識することがコツである。

 

例えばあなたが無意識に呼吸しているとき、空気も、身体の中の肺や血液の働きも、まったく感じないであろう。しかしひとたび心静かに意識すると、驚くほど緻密な作業が行われていることを感じることができる。

 

「空気を吸って、吐いている。口と鼻が息を吸い、それを肺が受け入れる。肺は酸素を血液の中に出して、血液の中にある二酸化炭素と交換して、もういちど息を吐き出している。これを24時間、365日、休みなくやっている。だから生きている」

 

こんなふうに感じると、シンプルに「すごい」と思うものである。

 

 

空気という目に見えないものがあり、未だに科学で完全に解き明かされていない天/地・宇宙/自然の仕組みという「見えない何か」が存在している。その理解の根源として、その見えない「何か」が持つ力やエネルギーを、我々の祖先は神と呼んでいた。

 

みな、朝になれば目が覚めるのは当たり前だと思っているが、たとえ若くて健康体でも、夜眠るときに「明日、目覚める」という保証はない。何かの理由で夜のうちに呼吸が止まることも、心臓が動かなくなることもある。火事が起こることもあるし、強盗だって来るかもしれない。現代なら交通事故で脳死という人だっている。

 

神を意識すると、そうならないように一晩中動きつづけてくれた自分の肉体の働きと見えない何かに対して「ありがたい」という気持ちが自然に湧いてくる。

 

「今朝も起きられてよかった」そんな気持ちを込めた挨拶が「おはよう」である。 

 

目覚めた、太陽が輝く、ごはんを食べた、これらの「あたりまえ」は「今日もなにごともなく穏やかに過ごせる」という種類の「しあわせ」である。

 

 

恋愛が成就したり、仕事で大成功したり、そんな「心がふるえるようなしあわせ」が、お寿司やステーキのような特別な「ごちそう」だとすると、「今日を普通に生きるしあわせ」は、毎日の米やパンである。いつも食べるものがおいしいだけでも、人生はそう悪くはない。

 

 

ところが今、多くの日本人が「自分は無宗教だ」と思っている。それはそれでもよい。だが「宗教は怖い」「事件や紛争のもとだ」と背を向ける者がいる。しかし宗教とはまったく無関係に、自然を神のように大切に思ったり、神を身近なものとしてとらえる心は、現代の日本人にも遺伝子レベルでは生きている。

 

宮崎駿監督が制作するアニメーションを観て、多くの人が心うごかされる理由は、ストーリーのすばらしさ、絵の見事さだけが理由ではない。我々の心の底に眠っている遺伝子が自然や神々への崇拝がそこにあるからこそ感動し、日本のみならず世界で高く評価されているのも根源的な自然への思いが作品に息づいているからである。

 

 

自然や神々への崇敬はべつに日本だけのものではない。

 

アメリカのネイティブアメリカン、南米のインディオ、アイルランドやスコットランドのケルト、オーストラリアのアボリジニ、砂漠の遊牧民ベドウィン、みな自然や神々への崇敬をもっていた。

世界の多くはキリスト教やイスラム教、仏教といった「敵対者は殲滅をも辞さない古(いにしえ)の新興宗教」に取り込まれてしまったわけだが、日本は自然や神々への崇敬を持ったまま近代化できた、数少ない国なのだ。

仏教は元となる教育理論が良くできていたので、神の法として受け入れて活用した。結果として習合、独自の生活スタイルとして「神道」がしっかり息づき、宗教を信じていないと思っている人々ですらも漠然と“神さま”と意識できている生活スタイルというのは、無宗教による曖昧さではなく日本人が多様さを受け入れる豊かな精神性が遺伝子に存在することの証左である。

 

正月になれば神社に行って初詣、バレンタインになればチョコレートが良く売れて、子供たちはひな祭りや端午の節句を楽しみ、物心つけば盆踊りや秋祭りを楽しみ、年頃になればハロウィンやクリスマスを楽しみ、死を迎えたら僧侶がお経を揚げてどこかの寺の墓に入る。

 

日本人ほど多様性に対する許容量が大きい民は地球上に存在していない。

 

 

さて、そんなわけで。

 

このコラムを一読されたのも何かのご縁であろう。今年はそんなあなたに、最寄りの神社で「夏越の大祓」参加を推奨しておきたい。

 

 

秀麻呂