- 平安時代=「平安」ではない -

 

 

先月所用があって、ひさしぶりだが奈良に行ってきた。時流のタイミングとして、遠祖たちの大御心を直接体感する必要があると考えたからだ。

 

ところで、奈良といえば古の都「平城京」なのだが。

 

奈良が「平城京」と呼ばれたあと、京都に遷都が行われて「平安京」となり、その時代に政治の中心地が「京の都」だった。それが現代でいう呼称の「平安時代」になっている理由なのは、誰もが知るところであろう。

 

ただ「平安時代」と呼称しているくらいだから「平安な時代」だったのか?と問われれば、じつは答えは「NO」なのだ。

この頃、日本国内(特に近畿地方一帯)は激しい勢力争いが繰り広げられていた時代であり、平安という言葉からはかなりほど遠い時代であった。

 

ではなぜ、平安時代なのか?

 

「平安宮」が都の北部中央に造営されたからだ、というのがよく理由に挙げられるが、本当にそれだけなら、おそらく他の呼称で呼ばれたはずだ。

相対して、後世から見ると「なんとしても、我らの国を平安な世に治めたい」という意志を人々が示して「平安を求めた時代」に見えたからだ、という説がある。

 

わたしは、この説に賛成である。

 

じつは平安時代以降、一段と激しい「戦乱の世」が始まったのには、大きなターニングポイントがあったことを知っているだろうか。

 

それは「805年」のことだ。

 

桓武天皇の時代に遡るが、時の朝廷が「軍事力」を事実上「廃止」にするという「愚挙」に出たことがある。平安を求めるあまり、その根源である「軍事力」が無くなれば戦乱は起きないだろう、というロジックである。

 

嗚呼...

 

なんという大バカ者が上に立ってしまったことか...

 

当時、天神地祇は声を揃えて嘆いたことだろう。

 

結果として、ココを起点に9世紀~10世紀にかけての日本は「無政府」状態になったのである。さらに、この時の火種が後々まで長らく続く戦乱の世を創造することになった。

 

この「行政改革案」を起草し、政治決定した一連の流れを「徳政相論」という。

 

考えたのは、なんと。。

 

こともあろうに「藤原一門の者」である。名を藤原緒嗣(ふじわら の おつぐ)という。藤原式家の祖「藤原宇合(ふじわら の うまかい)」の孫にあたる人物だ。藤原一族はこの頃すでに大族だったので、中には人の上に立つべきではない「愚者」も時折出してしまっていた。

 

始祖・藤原鎌足が聞いたら、落胆し涙したことであろう。藤原不比等が聞けば、激怒し問答無用で首をはねたであろう。やはり、鎌足の遺言の通りである。「武力」を失えば「戦乱」が始まった。

 

 

さて、時を進めて「令和三年」の現代である。

 

いよいよ多国籍/無国籍勢力と中国共産党、そして追従する反国家勢力群は、本性を露わにし、資本主義体制に牙をむこうとしている。米国は国体が事実上二分化されてしまい、弱体化した米国との日米同盟「だけ」では戦力としてあてにならない。あてにしても、いざとなれば迅速には動かない。そもそも、動いたとしても敵勢力に勝たなければ意味が無い。

 

いま、日本に必要なのは「天下布武」なのである。

 

強大な武をもって天下を平安にするのである。織田信長公の旗印で有名な「天下布武」だ。織田信長は苛烈なキャラクターであったことが目立つ人物ではあるが、究極の合理主義者であり現実主義者、そして、じつは「平安」をなにより求めていた。

 

織田は神職の家系なので、当然である。

 

「コロナ」とワクチンばかりが時の話題になり、メディアの陰に隠れている事実から、目を背けてはいけない。目くらましに目をつむってはいけない。

 

我々日本人は、日本の國を守る意志を持つ日本人だけを、衆議院/参議院、都道府県知事/議会、市町村区議会、各首長へと送り込むことが肝要だ。

 

そして大至急の憲法改正、自衛隊の国軍化、専守防衛の撤廃、核シェアリングの実行、敵性国家資産没収の法整備、反日勢力の国外追放、電波法改正・電波オークション導入、新・国際連盟の設立、これらすべて、日本の国土・領海・国民・経済を守るためには大至急実施する必要がある。

 

これは国民による、国民のための、最重要の国策である。よって今後、公の選挙と名の付く機会はすべて、この視点から投票するのが重要なのである。

 

そろそろ選挙の時期も近づいているので、上記示しておいた。

 

 

秀麻呂