2026年元旦に至りて - 丙午の神火

 2026/01/01

 

丙午 ―― 神火を宿し、筆を取り、走る。

 

神心書道の書き手として、筆を取る前にわたしはまず一呼吸おくことにしている。そして和紙を前に、心のざわめきが静まるのを待つ。

 

それは書き始めるためというより、神前に立つための禊に近い。

 

日本人にとって「年のはじまり」とは、単なる暦の更新ではない。祓い、整え、もう一度この身を神に預ける神ごとである。

 

2026年は丙午。火を帯びた午の年だ。

 

この干支を、かつて人々は恐れた。だが神道の視座に立てば、それは誤解であると分かる。火は穢れを焼き、道を開くもの。恐れるべきは火ではなく、火を扱う覚悟を失った心である。

 

 

伊勢 ―― 常若という思想がある。

 

伊勢神宮は、二十年に一度、すべてを壊し、すべてを新しくする。式年遷宮とは、更新ではない。永遠を保つための破壊である。

 

古くなったものに執着せず、新しいものに溺れず、ただ「常若」であり続ける。これは宗教施設の話ではない。生き方そのものだ。

 

私は書家として、何度でも「型」に戻る。何度でも線を壊し、また線に帰る。

 

伊勢の思想は、この「書」と同じである。守るために、変える。変えるために、守る。

 

丙午の年、日本が思い出すべきは、この常若の覚悟なのだ。

 

 

出雲 ―― 見えぬ縁を結び直すという思想がある。

 

出雲大社は、縁結びの社として知られる。だが、ここで言う縁とは、恋愛だけではない。人と人、人と土地、人と仕事、そして、人と神。

 

目には見えぬ関係性を、もう一度、正しい位置に結び直す場。それが出雲である。

 

 

世界は今、縁を断ち切る速度ばかりを競っている。分断、排除、効率。

 

だが日本には、結び直す思想がある。

 

書を書くとき、私は線と線の「間」を読む。そこに流れる気を感じ取る。縁とは、線そのものではなく、

線と線のあいだに宿るものなのだ。

 

 

宇佐 ―― 公と私のあいだに立つ神

 

宇佐神宮は、八幡信仰の源である。武の神であり、同時に民を守る神である。国家と個人、権力と生活。そのあいだに立ち、暴走を戒め、均衡を保ってきた。

 

今の日本に、もっとも必要な神徳かもしれない。声を荒げず、むやみに刀を振り上げず。だが、断じて退かない。

 

 

神心書道も同じだ。強さとは、力だけではない。一本の強靭な芯が通った静かな力でもある。

 

祓い、禊、そして直会。神道において、行動の前には必ず祓いがある。そして、禊がある。これは過去を否定する行為ではない。積もった塵を落とし、もう一度、正しい姿勢に戻ることだ。

 

 

書き損じた「書」を処分するとき、わたしは一切なにも悔やまない。それもまた、祓いだからである。

 

書き終えたあと、ふっと肩の力が抜ける瞬間がある。あれは、直会に近い。行のあとに訪れる、人間に戻る時間。

 

丙午の年、走る前に祓い、走ったあとに直会を持つこと。これが、火を人生に生かす作法である。

 

神心書道の宗主として、この年に思うこと。わたしは「筆」と「書」の修道を行うにあたり、常日頃から時代の気を感じている。

 

いまの世界情勢は、速い。だが、深くない。だからこそ、ゆっくりと、しかし確実に通った強靭な芯が必要だ。

 

丙午の火を、怒りや破壊に使うのは簡単だ。だが、灯として扱うには、智慧と技がいる。このことは、神心書道の「書」と同じである。

 

まず修道を、そして自らの人生とその生業を、ひたすらに走ろう。だが、日々は神前だという事実を忘るな。

 

午は走る。止まるために走るのではない。祈りを行に変えるために走る。伊勢を思い、出雲を思い、宇佐を思い、そして、己が氏神や鎮守の神前に立つのである。

 

願いではなく、決意を胸に。

 

2026年、この丙午の年が、祓われ、結ばれ、灯された年となることを。そして、その一歩を踏み出すすべての人に、神火の加護があることを、わたしは筆を横に置き、静かに祈るとしよう。

 

 

 秀麻呂