2026/02/02
暦の上で春が立つ、その一歩手前。冬と春の境目に置かれた日を、私たちは「節分」と呼ぶ。
節分とは、文字通り「季節を分ける日」。本来は、立春・立夏・立秋・立冬、それぞれの前日すべてが節分であった。しかし、古代から日本では「春」を一年のはじまりと重んじてきたため、いつしか冬から春へ移る立春の前日が、特別に「節分」として意識されるようになってきた。
旧暦において立春は新年の初日である。つまり節分は、いまの感覚で言えば「大晦日」にあたる。一年の穢れや滞りを祓い、次の年の福を迎え入れるための、静かで、しかしとても力強い“年の戸口”なのである。
この「境目」という感覚は、日本人の精神の奥深いところに息づいている。
夜明けと日中のあいだ、海と陸のあいだ、此岸と彼岸のあいだ。境目には、目に見えないものが行き交う。だからこそ、境目は清め、整え、言祝ぐ必要がある。
節分は、まさにその思想が年中行事として結晶した日と言えるだろう。
追儺(ついな)と豆まきのこころ。
節分の行事の起源は、古代宮中で行われていた「追儺(ついな)」にさかのぼる。年の変わり目に、疫病や災厄をもたらすと考えられた鬼や邪気を追い払う儀式のことである。やがてこの風習は、庶民の暮らしの中に降りてきて、中世に「豆まき」という形に姿を変えた。
「鬼は外、福は内」
この短い言葉の中には、日本人の世界観がぎゅっと凝縮されている。鬼とは、単なる想像上の怪物を指しているのではない。病、争い、貧困、怠惰、不和、慢心、そして自分自身の心の濁り。
それらすべてを象徴した“災いの総称”を「鬼」というのである。
豆をまくのは、炒った大豆。生の豆ではなく、火を通したものを使うのは、「再び芽(=災い)が出ないように」という意味が込められている。
また「豆」は「魔を滅する(まめ)」に通じる言霊を宿すと伝えられてきた。掌から放たれる一粒一粒が、小さな祈りの弾丸となって、見えない災厄を打ち払う。
そう思えば、豆まきはずいぶんと詩的で、そして勇ましい神事でもあるのだ。
恵方巻きと「向く」という作法
近年の節分といえば恵方巻きを思い浮かべる方も多いだろう。元々の恵方巻は、江戸時代末期から明治時代にかけて大阪・船場の花街(花柳界)で、商売繁盛や無病息災、家内円満を願って「太巻き寿司(丸かぶり寿司)」を食べたのが始まりだった。
その年の恵方、すなわち歳徳神のいる方角を向き、無言で太巻きを食す。口を結んで食べるのは、運を逃さぬためとも、願いを言葉にせず胸の内に納めるためとも言われる。
ここで大切なのは、「食べる」こと以上に「向く」という所作である。
どちらを向いて生きるのか。どちらを向いて一年を歩き出すのか。節分は、身体ごと方角を変え、心の向きもまた新しく定める日なのである。
節分は「祓い」と「はじまり」が同時に起こる日
節分は、ただ古いものを追い出す日ではない。同時に、新しいものを迎え入れる日でもある。祓いと招き。この二つは、いつも対になって動いている。掃除をしなければ、良い風は入ってこない。心を整えなければ、福も腰を下ろせない。節分とは、その当たり前のことを、年に一度、はっきりと儀式として示す日なのだ。
神道でいうところの「祓(はらえ)」と「禊(みそぎ)」の心得が、暮らしの中に溶け込んだ姿。それが節分なのである。
節分に捧げるべき祝詞~さて、この大切な節目に、ぜひ唱え、そして書にしていただきたい祝詞がある。今回のコラム/アメノマナイでは、節分の奉納祝詞文の一例も示しておこう。
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かけまくも畏き
天地開闢のはじめの時より
日乃本の国土を生み成し、
国を治め、民を養い、
人の世を護り導き給う
八百万の大神たちの
広く厚き御恵みの御蔭をもちて、
今年の節に当たり、
ここに謹みて白さく。
うつし世に生きる我らが身に積もり積もりし
心身の穢れ、罪、咎、過ちの数々を、
ことごとく祓い清め給い、
ありとあらゆる災厄、禍事、凶事をば
根の国、底の国へと遠ざけ遣らい給え。
かくして清き気、清き御息吹を
ここに吹き満たし給い、
新しき春の息吹とともに、
我らが行く先行く末を照らし幸え、
日々の営みを安らけく健やかに守らせ給えと、
恐み恐みも白す。
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※現代語訳
この国の天地がはじめてひらけた太古の昔より、
日本の国土を生み育て、国を治め、人々を養い、
私たちの世をお守り導いてこられた
八百万の神々の広く深い御恵みのもと、
今年もまた節目の日を迎えるにあたり、
謹んで申しあげます。
日々の暮らしの中で、知らず知らずのうちに身と心に積もり重なってしまった
さまざまな穢れや過ち、罪や咎を、どうかすべて祓い清めてください。
そして、あらゆる災い、禍ごと、よくない出来事を、
遠く遠くへ追い払ってください。
そうして、清らかな気と新しい命の息吹を、ここに満ちあふれさせ、
訪れる春とともに、私たちの進む道を明るく照らし、
これから先の日々の暮らしを、穏やかで健やかなものとして、
どうかお守りください。
このことを、深い畏れと敬いの心をもって、お願い申しあげます。
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この祝詞は「祓い」と「招福」を同時に願う構造になっている。災いの素を祓うだけで終わらず、幸いの素を迎え入れるところまでを一息に言祝ぐ。
書生・書士、会員のみなさんには、ぜひこの祝詞を神代文字で書してみていただきたい。
神代文字とは、単純な古代文字ではない。音そのものをそのまま形にするための太古の御業である。漢字が意味をあらわす文字だとして、神代文字は「音の響き」と「言霊のエネルギー」をそのまま現世に表す技である。
墨をすり、紙に向かい、一字一音を置いていく。その行為自体がすでに祓いであり、静かな禊である。書き終えた一枚には、その人の一年分の決意と祈りが転化できる。
奉納という「結び」
書き上げた祝詞は、ぜひ最寄りの神社へ。但し、社務所のある、きちんとお祓いや祭祀が行われている神社の賽銭箱、あるいは奉納所に納めてくるのが良い。奉納とは「神に預ける」ということである。「自分の願いを、天と地のあいだに結ぶ」という意味を持つ。
個人の願いであっても、言葉にして、書にして、天に差し出した瞬間、それは少し「世のため」の祈りにも意図を変えている。不思議なものだが、祈りとはそういう性質も持っているのだ。
日本と世界のための節分である。節分は、一家一人の行事であると同時に、国の節目でもあるのだ。いま世界全体が、大きな「時代の変わり目」にある。わたしは予てから述べているが、これこそが「パラダイムシフト」という現世の移り変わりなのである。
だからみなにも願ってもらいたい。
2026年が、そして未来が。日本にとって、そして世界にとって、災い少なく、調和多き現世となるように。争いより対話、分断より結び、いずれはこのことが「あたりまえ」の現世になるように。
今の世界は、そのために必要な「混沌=カオス」の時間軸にあるのである。
神心書道を修する皆々が、そしてこのコラムを読んでくれたすべての人たちが、それぞれの場で良き節分を迎え、祓いと招福を重ねていかれるように。
一粒の祈りであっても、集まれば山を動かす。一滴ほどの言霊であっても、重なれば世の流れを変える。
節分はそのことを教示する、静かで力強いオープニングイベントである。
秀麻呂
